死なないもの

 

死なないもの

私はサンドラから離れ、ゆっくりと動き始めた。それは復活祭の金曜日の夜遅くだった。私は彼女の指から結婚指輪を外し、家に帰ってベッドに身を投げた。私は音の無い、乾いた霧でつくられた世界に入っていた。私はついに、「地獄」の外にいた。

私の運命の進む道は、子供の頃のある夏に決まったのだと思う。私は、母が想像上の愚かな生き物として嫌悪して繰り返し侮辱していた私の落ちこぼれの友達と、自然の中に逃避していた。私はオデュッセウスのように日々を過ごしていた ― 母から上手く逃れられるように島から島へと移動しながら ― 何を夢見ているのかははっきりさせないまま、見たものを文字にしたり描いたりしつつ。夏の期間は短くなく、私は生きるすべも知らず、何もできないまま成長していた。

それから、黒い髪をしたとても美しい女の子に出会い、髪の毛は本当は赤いのだと知らないまま、彼女と結婚した。

新婚旅行の後、あの日までは、私たちはとりわけ私の中の世界で生きていた。

 

計画の変更

 

5月5日金曜日。その日すべてが変わった。

 

仕事の後、私はいつもの軽食屋で昼食をとるためにサンドラと一緒にいた。午後二時だった。サンドラはジムに行って、そしてシャワーを浴びてきたところで、ジーンズに白いブラウスだった。

少し気晴らしをして、湖の近くで裸足で芝生を歩こうと、数日間オーストリアに行くことを計画していた。

彼女の左腕のことを話した。一週間前から腫れ上がって赤くなっていて、それは彼女を心配させていた。私は彼女に救急病院に行くように勧めた。短時間の診察のはずだった。

 

彼女の髪 ― 黒くてまっすぐな ― は彼女の顔の左側を撫でるように揺れ続けていた。彼女は、セックスをしたい時のように、私を見つめ始めた。

その日、彼女はいつものように、まるで何の不安もないかのようだった。優しく、私を抱きしめて、うっとりするような笑顔で笑った。

 

その日、私が見る景色は鮮明で、空は晴れていて、私の横隔膜は穏やかに動いていた。

 

2時間後、私はプラスチックの白い床を私の方に向かって歩いてくる女医の足元をじっと見つめていた。

サンドラが受けたレントゲン写真撮影は、胸部に影があることを明らかにした。

女医は、私に言った。「これから、全ての検査を行うため、呼吸器科にお入りいただきます」。

「肺の中ですか?」

「いいえ。肺と肺の間です。」

 

素晴らしい施設

 

その夜は、朝には影は消えているのではないかという希望を持って家に帰った。

朝、呼吸器科医は、その日サンドラにTAC(断層撮影)をするために全力を尽くしたと言った。土曜日は湖で、特別な日だ。私は医師に礼を言い、そして医者は私にリンパ腫の疑いを告げた― 芝生で騒ぐ子供の声が聞こえる中で。「ご心配なさらないでください。治ります。私は、何年も前に奥様と同じ病気を患った友人と一緒にボートに乗っています。」

 

「地獄」に来てしまったことに気付いたと同時に、世界のこの一片はどのように機能しているのか理解しようと、私は庭に出た。

 

ガラスとセメントの壮大な施設は、草花のない広い庭に建っていた。

一階は、息の詰まるような熱さ、ガラス張りのバール、いつでも誰かを運び出す準備の整った有能な葬儀屋、そしてそれぞれの科に通じるエレベーターで占められていた。

 

その場所で過ごしたその11か月は、私の人生の中のトラウマ的な出来事ではなかった;  「地獄」は、私が少し立ち止まることを余儀なくされた別の場所にほかならなかった。

 

喫茶店で見る小さな神経症

 

子供の頃から私を最も恐れさせていたのは、両親を失うことを想像することではなく、愛する女性を失うことであった。子供に一体何が想像できるだろうか。

 

私のこの人生における使命は、彼女に別れを告げ、どこかに行かせるために彼女に出会い、恋に落ち、結婚を決めることでいいはずがなかった。これらの想像は、それでもやはり何か意味があるに違いなかった。むしろ私は手遅れになる前に彼女を救わなければならなかった。もしくは彼女が病気になるまえに何かを変えようとするべきだったのかもしれない。

 

あの最初の日、私はどうしてこんなことになってしまったのか、わからなかった。サンドラは若かったし、運動もしていたし、健康的な食事をしていたし、野菜や新鮮な果物を食べ、タンパク質は少ししか摂らなかったし、それに煙草も吸わなかったし、私には精神的にも落ち着いて見えた。彼女がそうなってしまう理由がなかった。

 

新しい部屋へ彼女に会いに行く前に、私はバールに逃げ込んだ。そしてそれは、その後の日々の、欠かせない習慣となった。その場所に座って、かろうじて温かいトースト、乾燥したリンゴのケーキ、コーヒーの後味による吐き気を知った。そして、会議から出てきたばかりの二人の医師のリラックスした会話から、抗うつ剤は抗不安剤に次いで最もよく売れていることも知った。

 

またそこには落ち着きのない動きも見られた。

私の一番近くにいた医師は、カップの中でスプーンをかき回し続けていて、それは私に、彼はそれを止める気がないのではないかと思わせた。別の医者は、カウンターの上にこぼれてしまった砂糖を執拗に眺めているように見えた。そして彼らは話し続けていた。一方私は、モーターボートの音と芝生の上を走り回る人々の声を感じていた。そして、何度も振り返ったが、既に湖はもう存在しなかった。

 

愛の空白

 

サンドラの部屋に入った時、あの塊をつくったのは、彼女の影であったとわかった。

 

私が椅子に座る間もなく、彼女は言った。「心配しないで。何でもないわ、大丈夫。」

 

このように、自分たち自身に、私たちは最後の最後まで事実を否定し続けた。

それは二年前のある夜、私たちが横になってくつろいでいる時のことだった。私たちの視線が交差し、私は彼女の眼の中の暗闇に入ってしまい、そして、私の影は、彼女の中に何かを注入してしまった。まさにこの瞬間、彼女の影も私に何かを投影し、その瞬間から私は彼女から離れられなくなった。

私たちはどちらもこの瞬間に何かをつくり出したことに気付いていたが、お互いに何も言うことはなかった。

 

しかし私たちが最終的に来てしまったその場所、その全ての中心は空白だった。

病院の医長は、せめて彼のイギリス製の高級車だけでもその場所から離しておこうと、毎朝病院から数分の駐車場に無料で駐車していた。彼は自分の科の廊下に入ると、気が狂ったように怒鳴っていた。彼はがんこで、その科の中は無気力が充満していた。医師たちは時に名で、時に病名で呼び、最初の日のX線写真とともに毎日サンドラをたらい回しにした。

彼らはすれ違う度に、親しさの度合いによってそのボールを回し、サンドラのことを「あの縦隔洞腫瘍の患者」と呼び、症状について手早く話し、自分なりの解釈をしたり、自分たちの影を彼女に投影したりしていた。
私たちは多少なりとも重要な検査を待って日々を過ごしていた。彼らは、他の科の同僚に全く相談することなく、車の色のような全く関係ないことについて話しながら必要なものを準備し、そして時間を見て、言った。「いずれにしてもこの検査は重要ではありません。重要なのは明日の検査のほうです。」

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